そしてそれは突然に。

エタニカ物語番外編「そしてそれは突然に。」

  1. 雨の日
  2. 異世界
  3. 襲撃
  4. 大丈夫
  5. エピローグ

 

雨の日

 

 また髪の毛が跳ねちゃった。そうアクセサリー用の鏡の前で自分の髪を摘みあげ、ユッカはため息をついた。角度によってはオレンジにみえる明るい茶の短い髪はかなりの癖毛で、四方八方へつんつんと跳ねてしまっている。見ようによってはセットしたようにだって見えるかもしれないわ。そう苦笑してユッカは鏡の前で笑顔を作ってみた。釣り目がちの大きな茶の瞳。友達に猫の目みたいとよくいわれるが、自分でもやっぱり猫っぽいと思う。この目と同じく大きめな口のせいか十八になった今でも年より二~三歳幼く見られがちだ。
(ま、気にしてもしょうがないか)
 笑ってまたはたきを握りなおし、丁寧にディスプレイした品物の埃をはらう。自分はちょっと注意力散漫、もっと簡単に言えばドジだから、十分気をつけないとまた店長のクリスさんに苦笑いさせてしまう。そう考えながらユッカは慎重に目の前のかわいいドット柄のカーテンサンプルを結びなおし、肘ですぐそばにディスプレイされていたカップを倒した。カチャンという硬質な響きに慌ててそれを直し、何処も割れてはいないことに胸をなでおろしたその時、背後からのカランカランと来客を告げるベルの音にユッカは顔を上げた。
「いらっしゃいませ!」
 慌てて居住まいを正し、笑顔で声を出す。ところ狭しと並べられた雑貨の合間、ドアを開けて入ってきたキャリアウーマン風の中年女性が自身のコートをハンカチで拭いつつ、ちらりと店の奥にいるユッカに視線を向け、また戻した。
(雨……)
 いつの間にか雨が振り出していたらしい。蝶が花に止まるモチーフのイラストと店名がプリントされた窓の外、普段はカジュアルな雰囲気のある、だが今は彩度を落とした冬の大通りを人々が足早に歩いていくのが見える。アスファルトが瞬く間に黒く染まりゆくのを見ると、かなり雨脚は強くなってきているようだ。
(傘、持ってこなかった……。クリスさんに貸してもらわないといけないかしら)
 カウンターに戻り、天板を拭きながらそう考える。この少女趣味な雑貨屋の店長であるクリスは、かなりのフェミニストだ。傘を貸して欲しいと頼めばきっと二つ返事でいいよと言ってくれるだろう。だがユッカは出来るだけクリスにかりを作りたくなかった。突如一人きりになり先の見えない闇の中にいたユッカに、赤の他人であるのに手を差し伸べ、店に雇ってくれたのはクリスだ。店に雇い、部屋の面倒も見てくれた。入学したばかりで退学せざるを得なかった大学にも、行きたかったら出資してあげるよ、とまで言ってくれた。流石にそこまでは、とその件は断ったが、これ以上小さなことでも彼の世話になることは避けたい。
(……帰るまでに雨がやむといいのだけど)
 再度顔を上げ窓の外へ視線をやる。視界の隅で、先ほど入ってきた女性が壁に掛けられた北欧雑貨のタペストリーを眺めている。中年の、来ている服もおよそ少女趣味とはかけ離れたいかにもキャリアウーマンという雰囲気の女性。おそらく雨をよけるために店に入ったのだろう。だが割りと熱心に品物を見ているところを見ると、誰か贈る先があるのかもしれない。
 激しさを増す雨の音と、外が暗くなった代わりに明るさを増した様に感じる店の隅に置かれたランプ。そのオレンジの光。
 ぼんやりとそれらを眺めていると、女性が手にオルゴールを持ってユッカのいるカウンターに歩み寄ってくるのが見えた。透明なガラス板の上を白い陶器で作られたハリネズミと、それを追う様に温かそうなケープを着込んだ少女が回るかわいらしいオルゴール。ユッカがカタログから選び、クリスの了承を得て店に並べたものだ。きっと売れると思って取り寄せたもので、こうして人の手に選ばれたことに嬉しさを感じつつ、同時に少し寂しくもあった。自分でも欲しいと思っていたからだ。クリスの援助を得てなんとか生活している今、そうそう手を出せるようなものではないのだけれど。
 女性はカツカツとブーツの音を立てながらカウンター内にいるユッカに視線を向けて手にもったオルゴールを持ち上げて見せた。リン……とかすかにオルゴールが音をたてる。
「これ。包んでもらえるかしら。プレゼント用に」
「はい!かしこまりました。失礼ですが、どのような方へ?」
 オルゴールを受け取り、微笑んでそう尋ねると財布を出そうとしていた女性はユッカの顔を見やってからふわりと微笑んだ。途端硬いイメージが一転し、柔らかな空気が女性を包む。
「娘によ。丁度あなた位の。もうすぐ誕生日なの」
「……そう……なんですか。おめでとうございます。じゃあこちらの紙でお包みしますね」
 震えそうになった喉を押さえ込むように息を止め、ユッカは無理やり表情筋を動かして笑顔を作った。
 上手く笑えただろうか。変に思われなかっただろうか。
 平静を装ったままオルゴールを箱にいれ、ラッピングする。袋に入れて女性に手渡し、会計。
「ありがとうございました。またお越しくださいね」
 ユッカの声に女性は「ありがとう」と微笑み、幾分小降りになった雨のなかを大通りへと小走りで出て行った。
(よかった、上手く笑えたみたい)
 女性の何を気にするでもない様子にほっとしてユッカは内心胸をなでおろす。
 落とした視線の先、磨かれた木製の天板に映った自身の顔には、変な具合に笑顔が張り付いていた。

 店長のクリスが出先から戻ってきたのは夕方だった。
 銀髪に青い瞳、そして195センチの長身。女性受けするマスクに済まなそうな笑顔を浮かべながら、店のドアを背中で押し開ける。クリスは資産家の息子らしいが、趣味でこの小さな店を営んでいる28の青年だ。
「ごめんねユッカちゃん。ちょっと遅くなってしまって。あ、この中のファイルの書類、いつもの棚にしまってくれるかな」
「あ、はーい!」
 出先で買ったのだろう、行くときは持っていなかったビニール傘をたたみながらクリスは手にしていたかばんをユッカに手渡した。その間も空いたドアから冷たい風が店内に入り込んできて、ユッカはその寒さに身震いする。外は薄暗く、もう30分もすれば日は完全に落ちるだろう。
 雨はますますその激しさを増している。
「ああ、ごめんね。すぐ閉めるから」
 ユッカの様子にクリスがそう言い、急いで傘を傘立てに立てた。
「あ、大丈夫ですよ!――雨、やみませんねー」
「予報じゃ今日は晴れって言ってたのになあ。残念だな、3年ぶりだってのに」
「え?なんかあるんですか?」
「ん?ああ、あのね……」
 クリスが店のドアをくぐり、周りの雑貨を濡らさないように慎重に着込んでいたコートをたたむ。バタンとドアが閉まる音とともに、雨の音が急に遠のき、ひんやりとした空気はまた元の暖かさに戻った。
 ユッカは書類をカウンターの後ろの棚にしまいこみ、タオルをクリスに渡すと、店の隅に置かれたランプの明かりを、つまみを調節して強くする。クリスがそれをみて「うん、丁度良い」と微笑んだ。
「あのね、今日は皆既月食なんだよ」
「月食?」
「そう、月が地球の影に隠れるっていうアレね。でも見れそうにないなあ」
「そうですねえ……」
 窓の外を二人して見やる。大通り、店の前のT字路の先、ビルの合間から見える空には分厚い雲がはり、大粒の雨を落としている。普段はこの時間帯になると近くのカレッジスクールから帰ってくる女子学生達でこの店もにぎわうのだが、今日は開校記念日らしく通りを歩くのは帰宅中の会社員の姿ばかり、それもまばらだ。
 街は灰色。何処までもくすんで、窓にそってその色彩が流れ落ちていく。
 だけど、流れても流れてもくすみはとれない。
 ぼんやりと外を眺めていたユッカは、「さてと」というクリスの言葉にはっと我に返り、隣に立っていた店長を見上げた。約35センチ上でクリスが「ん?」と微笑む。
「あっ、いえ、ちょっとボーっとしちゃって」
 慌てて答えたユッカの言葉に「そっか」と答えながら脱いだ上着の上にクリスはエプロンをつける。
「あ、ユッカちゃんもう上がっていいよ。あとは僕がやっておきますから。ごめんね、五時すぎちゃって」
「あ、はい。じゃあお先に失礼しますね!」
 クリスの言葉に時計を見ると時刻は5時を少し回ったところだった。つけていたエプロンをたたんでカウンターの下の棚に置き、代わりに自分のショルダーバックを引っ張り出す。
「ユッカちゃん」
 じゃあまたあした。とドアをあけ帰ろうとすると追いかけるようにクリスが声を発した。何か忘れたかしらと思いながら、何ですかと振り返る。柔らかく微笑んだままクリスは遥か下のユッカを見下ろし
「大丈夫?」
「……えっ」
 掛けられた言葉に目を見開きユッカはクリスを見つめ返した。何度か口を開いては閉じを繰り返し、自分のうろたえっぷりに思わず苦笑する。
 でも大丈夫。少し思い出してしまっただけだから。
 顔を上げて、クリスに向き直る。
「ありがとうクリスさん!まだちょっと辛いけど、私大丈夫だから!」
クリスにいつもと変わらない笑顔をむけて、ユッカはそう微笑んだ。

 雨脚は激しさをますばかりのようだ。窓の外の暗闇にユッカは目をむけたが、ユッカの住むアパートメントの向かいの公園で、小さく街灯が灯っている以外は殆ど何も見えない。時刻は十時を回ったころか、隣の部屋にすむ家族の声が雨の音に紛れて、かすかに聞こえてくる。
母親が子供に早くねるようにいっているらしい。
 ふぅ……と息ををつき、再度読んでいた本に視線を戻す。だが数行よんでその内容を覚えていないことにきづく。慌てユッカは再度行をたどりなおし、内容を頭に思い描こうとしたがまたも失敗してユッカは本を読むのを諦めた。
 こういう瞬間が一番たちが悪い。
 急に意識してしまった静けさにそわそわと机から立ち上がり、何かしなきゃと部屋を見回す。ベットと少しばかり家具の置かれた部屋。隣にはキッチンとトイレ、そしてバスルーム。それで終わり。狭い部屋の中で、少しくらい明るい部屋にしなきゃ、と買ってきたコーラルピンクのマットが落ち込んだ色彩の中、どこか浮いている。
(本当に性質が悪い)
 足元が浮いているような感覚。眩暈と高まりかけた心拍数を落ち着けようとユッカは胸を押さえすーはーと深呼吸した。
 一回、二回、三回。
 雨の音、息の音、雨の音。
(ほら、大丈夫)
 瞳を開いて誰へとも無く頷き微笑む。
「よいしょっと」
 気をとりなおし、ベットに弾みをつけて腰掛け、放り投げてあった資格試験の本を手にとる。これに集中出来なかったら着替えて寝てしまおうと、本にはさんであったシャープペンシルを手に取ったその時、
 カリカリカリカリ……
(え……?)
 突然聞こえてきた不思議な音にユッカは顔を上げ耳を澄ませた。カリカリ、カリカリカリ。何かを引っかくような音は玄関の方から聞こえてくる。
 「……猫?」
 その合間に聞こえてきた鳴き声に、ユッカは本を置いて立ち上がった。猫が玄関のドアを引掻いている様だ。
 薄暗い玄関の電気をつけ、サンダルをつっかけてそっとドアを空ける。猫の姿は無い。顔を覗かせた廊下の明かりはすでに落とされ非常灯と歩くのに困らない程度の小さな明かりだけ。向かいの部屋のドアからは、大学生達が集まって談笑している声が漏れてきている。
(逃げちゃったかしら)
 ドアから顔を出しあたりを見回す。するとミャアンと猫の鳴き声がして、ユッカは声のした方向へ振り返った。
「あ」
 一階へと続く階段の手前、廊下の少し汚れたカーペットの上に真っ白な猫が一匹。薄暗い空間の中、まるで光を発している様にも見える。猫はユッカの視線が向いたのと同時に再度小さく鳴くと、ふわりと飛び跳ね階下へと消えた。
「ちょっと、まって!」
 思わずユッカはドアから飛び出しその姿を追いかける。
 まるで宝石のような、不思議な光を帯びたエメラルドの丸い瞳。
 一瞬だけ合ったその猫の瞳があまりに印象的だったからか、それとも何か別の力が働いたのか、引き寄せられる様にその姿を追いかけ階段を駆け下りた。
『早く。早くしないと』
(早くしないと)
「――っつ!」
 突然サンダルが脱げそうになり、階段から転がり落ちそうになる。慌てて手すりにつかまって何とかその事態を逃れ、ほっと息をついた。視線を上げると狭いロビーへ、トコトコと小走りに走っていく猫の背と尻尾が僅かに見え、見失わないように慌ててその後を追う。
(早くしないと……何?)
 ふいに浮かんだその言葉に自問自答しながらも足は止まることなくその白い姿を追いかけている。
 消灯された狭いロビーを抜け、小さく明かりの灯った管理人室の前を横切り、自動ドアをくぐる。
「さっむ……!」
 突然の冷たい風にユッカは身を縮こまらせた。思えば部屋着のままなのだ。暖房は節約の為につけていないから上にセーターはきこんでいたけれど、昼間履いていたタイツは脱いでしまって膝丈のスカート一枚。足がむき出しだ。自分の格好に苦笑して、ユッカは顔を上げる。
「あれっ……」
 猫の姿が見えない。
「やだ、何処いっちゃったの?」
 何故だか慌てて段差を駆け下り、アパート前に広がっている公園へと足を進める。公園といっても遊具があるわけではなく、レンガ敷きの広場の中央に噴水といくつかのベンチがあつらえてある広場だ。近隣住民が集まり雑談をする、わりと小奇麗な憩いの場所。今は暗闇に沈んで数本の街灯が遠くで小さくオレンジの光を零している。
(あ……)
 雨やんでる。
 いつの間にか雨は病んでいて、湿った空気があたりを包んでいた。振り仰いだ空は雲がゆっくりと風に流されて晴れだしている。
「晴れた……」
 視線の先で分厚い黒い雲の塊が風にゆらりと押し流され、その背後に潜んでいた夜空が姿を現した。
 月。
『早く……』
 はっとして視線を戻す。そこには猫の姿は無かった。だが、
(人?)
 今は止められて水面を静かに揺らめかせている噴水の向こうに、膝をついて蹲る人影をみつけ、ユッカは一歩後ずさった。だがその背が苦しそうに上下していることに気づき目を見張る。欠けた月が星の影から脱し光を取り戻そうとしているのだろう。僅かに零れだした月の光にその姿がぼんやりと照らし出される。
(女の子?)
 ハニーブラウンというのだろうか。金に近い色合いの柔らかそうな髪がポニーテールにされ、長めの前髪がその人物の表情を隠している。
「あ、あのっ、大丈夫ですかっ?」
 駆け寄りその隣にしゃがみ込んで背に手をかけた。せわしなく上下するその背と息遣いに救急車を呼ばなければと立ち上がろうとしたその時、ゆっくりと少女が顔を上げユッカの腕を掴んだ。
『早く……早くしないと』
「えっ……」
 直接頭の中に語りかけてくるような声にユッカは目を見開き、少女を凝視した。高くもなく低くもない、柔らかな、だけれど苦しげな声音。
(違う……男の子だわ)
『この世界の月の光は強すぎる……この体を保てない……』
 硬く瞑っていた瞳を少年が瞳を開く。長い睫毛に縁取られたその双眸はエメラルドの光を湛えていた。
(まさか)
『月が力を取り戻す前に、早く、戻らなきゃ……』
「なっ、何……っ?」
 足元が淡く光りだす。そして少年の体も。
 光はみるみるうちに強さを増し、ユッカと少年の足元に不思議な文様を描き出した。まるで冒険物語に出てくる魔法陣のようだと、その光景に数瞬目を奪われ、はっと我に返る。
「ちょ、ちょっと貴方……っ」
『ごめんね』
「え……」
 咄嗟にその場から逃げ出そうと体を引きかけたユッカの脳裏に、そう少年の声が響いた。視線を落とし少年と目を合わせる。
 苦しげな表情で少年は口を開く。
『ごめんね、巻き込んで、ごめんなさい。』
「……っ」
 風が起こる。
 キラキラと光が星の様に二人の足元から夜空へと舞い上がっていく。
(無理……目開けていられない……!)
 足元から迸る光の奔流に瞳を瞑る。
 バサバサと服と髪が風に煽られ、足元がふわりと浮き上がるような感覚に襲われた。
 
『君の力が必要なんだ』
 目蓋の裏が赤く光り、訳もわからず蹲ったその瞬間、そう囁く少年の声がした。

異世界

 虫の鳴き声がする。
 低く高く、まるで互いに囁き合っているように響いては止み、どこかが口を噤めば何処かで響きだす。
 聞こえないように、聞こえないように。
 リリリリ……と続く噂話。
 聞こえないように、聞こえないように。あの子に悪いから、聞こえないように聞こえないように。
 だけど音と音が重なれば重なるほど、音は大きくなっていく。
 聞こえないと思ってますか。声を潜めているからきっとあの子には届かない。そう思っていますか?
 でも、本当は聞こえているの。重なって重なって、耳をふさぎたくなるほど音は大きくなっているの。
 お願い、やめてください。何も言わないで下さい。
 
 まだ、たった一年しか経ってないの……!

 頬を撫でる暖かな風にユッカはゆっくりと瞳を開いた。最初に見えたのは柔らかでどこか不思議な瞬き。ゆっくりと明滅するその光にぼんやりと視線を向ける。ようやく焦点の合った視線の先ですずらんの様な花が青い光の中、風にゆらゆらとその身を揺らしている。
(あったかーい……)
 んふふ、と笑みを漏らし目を閉じる。ぬくぬくして、まるでベットの中で寝ているような暖かさ。
 そうね、きっとこれは夢なのだわ。
 私はあのままベットの上で寝ちゃったのだわ、きっと。
 そんでもってこの頬を撫でる風は、きっと窓を無意識に私が空けて、そしてそのままで寝ちゃったのよ。冬の風にしては、少し、いやかなり暖かいけど。
 そろり、と再度目蓋をあける。花がほのかに青い光を発しながら先ほどと同じように、ゆっくりと揺れていた。ぼんやりとそれを眺める。
 青は落ち着く。
 服や小物を青で揃えることはしないが、ユッカは青が好きだ。クリスが以前店に仕入れた青いランプ。光をつけると青いガラスを通して店内を淡い青の光が包み込む。ガラスの傘にまばらに空けられた小さな穴を通った光は、壁に白くその跡を残し、まるで海の中にいるか、暮れかけの夜空の中に自分が立っているようで、とても綺麗だった。思わず「クリスさんっ、これいくらっ」と聞いて、その値段に肩を落とした覚えがある。細かい細工のガラス工芸品の値段は、ユッカの所持金ではとても手が出せないものだった。
(これだけあれば資格試験が10回は受けられる……!)
 と考え、泣く泣く購入を断念したのだ。
「あれ欲しかったなー……」
「あれって何?」
「ガラスのランプでね、青くてすんごい綺麗だったの。光を灯すと部屋が青い色に包まれて、海の中のようで、日が完全に暮れる直前の、微妙な青さの空に星が浮かんでるようでもあって、ほんとに綺麗で私凄く欲しかったんだけど、お金なくって買えなかったのというか貴方はだれ」
「……結構神経図太いんだねー」
 感心したような声。寝そべったまま顔をずらすと、ユッカの直ぐそばにしゃがみ込んでいる姿を見つけた。寝そべっているユッカの視界にはその白いブーツしか見えないが、その人物はユッカの隣にしゃがみ込み、自身の膝を抱えこむようにして僅かに高い位置からユッカを見下ろしているようだった。危害を加えるような雰囲気は一切ない。
 そしてその後ろに先ほどみたのと同じ花が群生しているのと、何処までも続いているような青い草むらを、今度はしっかりと見てしまってユッカは「ああんもう」と諦めのため息をついた。
 現実逃避をやめてのろのろと体を起こす。あのまま寝てしまったわけでも、窓を閉め忘れたわけでもない。そんなことは判ってたのだ。
(顔を上げる。目をしっかりあける。現実から目を背けちゃ前にすすめないわ!)
 そう念じ、その通りに行動してユッカはあんぐりと口をあけた。
 ユッカは、青く光る森の中に座り込んでいた。
 声も出せぬまま、顔をゆっくりとめぐらす。さわさわと木々の葉が音を立て、その間を柔らかな風が通り抜けていく。目に映る色は、どこもかしこも青。内側から全ての草木が青い光を発している様に見える。ちょうど蛍が光を発するような、そんな柔らかな光だった。
「エルリナーダの森。青の森って呼ばれてるんだ。俺も久しぶりに来たなあ」
 綺麗でしょ?
 先ほどまで相槌を打っていたその声の主が、そういって草むらにへたり込んだままのユッカへと手を伸ばす。立ち上がらせようとしてくれているらしい。白くて細くて長い、だけれど少しだけ骨ばったそれは少年の指だった。その指から腕へと視線を移動させる。青い色をした袖口がかなり広めにとってある服。さらに上へ視線を寄せると袖は肩のあたりでぱっくりと開いて、肩がむき出しになっている。へんてこりんな服を着ているわ。と思いながらユッカはその少年の手に自分の手を載せて、思いきりぐいっとひっぱった。
「うっわあああああ」
 べちゃり。と少年はユッカの前へ崩れ落ち、数瞬の沈黙のあと、もそもそと体を起こしだす。金のポニーテールに、青いローブのような服。白い布をスカートのように腰に巻き、その下にはズボンをはいている様だ。腰に用途のよくわからない不思議な道具のようなものなどを沢山つけている。やっぱりへんてこな服だとユッカは思ったが、どこか神秘的な青い服は少年に似合っていた。
 眉をさげ「何で?」と伺うような表情を少年はユッカに向ける。その瞳はエメラルドだ。
 ようやくお互い目が合う高さになった。そう満足してユッカは少年へ笑顔を向けた。
「貴方さっきの子ね。ねえ、もう苦しくない?」
「えっ、あ、うんっ。もう平気」
 少年もそう答え、えへ、と笑顔をみせる。歳はユッカと同い年か一つ歳下くらいだろうか。アパートの前で苦しそうに息をついていた彼は、今はそんな様子は全く無く、屈託の無いやわらかな笑顔が印象的だ。
 そっか、よかったわね!と言うユッカの言葉に少年は照れた様に、そして嬉しそうに微笑んだ。
「でさ、あのね、貴方はだれ?ここは何処?私を連れてきたのは貴方よね?」
「あー、えっとね……」
 立て続けのユッカの質問に、宙に視線をやって少年は首をかたむける。何から離そうか考えているようだ。少し思案する素振りを見せた後、少年はこくり頷いた。
「うん、君を連れてきたのは俺だよ。そんでここは……、と、その話をする前にここを離れていいかな?ここは綺麗だけれど、安全というわけじゃないんだ」
 その言葉に「そうなの?」と言いながらユッカは少年の瞳を覗き込んだ。内面を透視できる訳じゃないけれど、もしかしたら何か読み取れないかしら、という軽い気持ちからだ。少年のエメラルドの瞳は透き通っていて、ユッカをだまそうとしているようには見えない。
「……え、と」
「ん?」
 少年が少し顔を赤くして身じろぎ、そし苦笑を浮かべる。
「困ったな。君達の世界の人は、皆そんなに瞳をみるの?」
「え?」
 君達、と言っただろうか。
「……あとで、全部話すよ」
 ユッカの問いかけに答えず、ふわりと笑って立ち上がる。少年は意外と背丈があった。百六十のユッカよりももう十センチほど高いだろうか。再度少年が差し出した手をかりて、今度はその手を引っ張ることなくユッカも立ち上がる。
(フェミニストだわ)
 なんだか嬉しくなって微笑みかけ、ユッカは首を振った。ここが自分の知っている場所じゃないことはわかる。ユッカは青く光る森なんて知らない。そしてこの場所へ突然ユッカをつれてきたのはこの少年なのだ。
(何わらってんのよユッカ!)
 そう自分自身を叱咤したが、隣で少年がユッカに視線を向けて伺うように笑い、思わずそれにまた「ふへ」と笑顔を返してしまい、肩を落とした。
 しょうがない。この危機感をあまり感じない性格は生まれつきなのだ。
(とりあえず話を聞こう。考えるのはそれからね)
 そうユッカは腹をくくった。
 と、ふいにシャララ……と透明な音がした。振り向いたユッカの視線の先で、少年が自身の袖口から(中に物が入るようになっているらしい)何かを取り出しそれを頭上で軽く振っている。それは薄い真珠色の円盤がいくつも重ねられたブレスレットの様で、振るたびに青い光の中でキラキラと光り、光をはじくような綺麗な音を立てた。
「友達を呼んでいるんだ。もうすぐくるよ」
 少年がそういい終わる前に、ふいに二人の立っている場所が暗く陰る。思わず上を見上げたユッカの目に、ぽっかりと空いた木々の合間からちらりと星空が覗いているのが見えた。だが星空は直ぐに巨大な何かに覆い隠される。
 それは殆ど音も立てずにゆっくりと二人の前に現れ、一度だけバサリと羽根を羽ばたかせると、地面に着地した。
 グルルルル……と低く唸り、長い首を少年の前へと差し伸べる。
「かっ、かわいい……!」
 その姿に、思わずユッカは声をあげ、ソレのもとへと駆け寄った。
 現れたのは巨大な怪鳥だった。長い首元はふさふさとした白い羽毛で覆われ、大きな翼は一番小さな羽根でもユッカの身の丈ほどもある。神秘的な雰囲気さえもった純白の鳥だった。尾は長く、優美に草の上に流れている。
『……可愛いだと?』
「うん!すっごく可愛い!」
 はしゃぎながらユッカはそのふさふさした首元の毛をもふもふと触る。その感触に「わあ、凄くやわらかい」と感動して声をだし、「あら?」と首をかしげた。今の声は誰の声?
 低く、どこか気品すら感じられる落ち着いた男性の声。
 きょろきょろと辺りを見回し、脳裏に浮かんだ一つの推測にまさか、と顔を上げる。するとある存在としっかり目があった。はるか真上から首を下ろし、赤く鋭い二つの瞳がユッカをじっと見つめている。
(まさかまさかいやまさかそんな)
「かわいいってさ。よかったねベル」
 ぽかんと口を開け、ぐるぐると同じ言葉ばかりを反芻するユッカの隣で少年がそうにこにこと笑って、鳥の首につかまった。ベルと呼ばれた怪鳥はゆっくりとその首を持ち上げ自身の背にその体を下ろす。というか、ぽいっと放り投げた。そしてまたゆっくりと視線をユッカに戻す。
『実に不本意な言葉だ』
(……しゃべった)
「うれしいくせにー。女の子にそんなこと言われたことないだろ?皆逃げちゃうもんねー」
 放り投げられ羽毛に埋まってもがいていた少年がようやく起き上がり、笑いながら鳥の背の上から顔を出すと、「おいで」といって唖然とするユッカを手招いた。
「わ、私も乗せてもらえるのかしら」
「もちろん!」
 少年が頷くと同時に頭上から降りてきたくちばしにひょいっと持ち上げられる。差し出された少年の手にサポートされ、ユッカはすとんと少年の隣に下ろされた。
 ふかふかとして、滑らか。その感触は高級な絨毯の様。むき出しの足にその感触はとても気持ちよく、ユッカはわあと歓声をあげた。
 その様子に微笑んで、ユッカの前にたち、芝居がかった動作で少年は頭を下げる。胸に手をあて、すこし片足を後ろへ引いて。おどけた雰囲気でありながら、その動作は滑らかで、優雅。
「俺はメリュジーヌのカイン。ラテルのお姫さま、ようこそエタニカへ!」
 ふわりと世界が浮き上がる。
 あたりを包んだ青い光が一瞬明るく瞬く。
 その刹那。
「つかまって。――飛ぶよ!」
 バサリ、と羽音がした次の瞬間、ユッカは星空の中に飛び込んでいた。

 空気が柔らかいと思った。
 森の外は夜の優しい闇に包まれていた。
 飛び上がる鳥の背の上、振り返った視線の先、青い森が淡い光を発しながら遠ざかっていくのが見えた。
 藍色の空の中、景色はどんどん後ろへと流れていく。そのどれもがユッカが見たことのない不思議な光景だった。白く優雅な鳥は、どこかを目指して滑らかに空を滑空していく。風の音と、時折羽ばたくベル(やけに可愛い名前だと思ったが、ベルというのはカインと名乗った少年がつけたあだ名で、どうも本当の名はベルムというらしい)の静かな羽音以外は何も聞こえない。
(大地が流れてる……)
 視線の先に広がる暗い海に、いくつもの島や大地が見える。幾つかの島では明かりはぽつぽつと灯り、生活する存在が居ることを示していた。
 その中でも、大きい島や大陸の下の部分から光がぼんやりと灯っているように見える。そして少しずつ、移動しているようにもみえた。
「浮島なんだ」
 ふいに耳元に飛び込んできた声に振り返る。カインが微笑み「あれ」と下を指差した。
「島の下光ってるのはね、地下に動力源があるからなんだ。沈まないように、島同士がぶつからないように管理してる」
 カインが言うには大昔、この世界は天で暮らしていたらしい。古代の文明は島を空へ浮かべ、空に地上を作った。だが人々は海へと戻ってきた。
 何故、とユッカは聞いた。カインは微笑みを浮かべたまま口を開く。
「世界がそれまでの形を保つことが出来なくなってきたから」
「え……」
「君達の世界でも起きていることだと思うよ。誰も、気づかないだけで少しずつ世界はバランスを崩している。二つの世界、いや、ひょっとしたら二つだけじゃないかもしれない。でも一つ言えるのは、君の世界と、このエタニカは双子だってこと。二つの水の層があって、その層は薄い壁を挟んで接している。そしてこの二つは質量的にバランスをとっている。片方が少なくなればもう片方も。だけど、そのバランスが少しずつ崩れだしているんだ。そして、その境界も揺らぎだしている。俺が君達の世界に僅かな時間であっても存在できるようになったのもそのせい」
「……」
 頭がその言葉を受け付けず、困惑にユッカは遠くへと視線を飛ばす少年の横顔を凝視した。
「ええと、……双子?」
「そう。もちろん環境が違う、歴史も違う。だから性格が違う。だけど存在するものの本質は、もとは同じものだったはず。今は姿かたちを変えてしまっていてもね。だから俺にも、このベルにも、君の世界に本質を同とする存在がいるはずなんだ」
「ええっと……ごめんなさい、何がなんだか判らない」
 カインの言う言葉はスケールが大きすぎて、ユッカには理解不能だった。戸惑うユッカを振り返ってカインは「ごめんね」と申し訳無さそうに微笑んだ。混乱するのが判っていて、それに対して誤ったのだろうか。
「双子の世界にも例外があって、それが君なんだ」
「えっ」
 突然自分が世界に組み込まれて思わずユッカは声をあげた。
「なぜ例外が生まれるのかは判らないけれど、君達には双子の片割れに当たる存在がいない。そして俺たちメリュジーヌと呼ばれる種族の力を増幅する。君みたいな存在をラテルって呼んでいる。そしてなぜかラテルは君達の世界にしか生まれないんだ。だからエタニカにはもう一人の君は存在しない」
「ラテル……」
 その響きにどこか不思議な響きがある様に感じたが、口にしてみてもユッカ自身が変わることは無かった。
(間違いって事はないのかしら)
 聞かされた言葉を反芻してみても、言われたことに実感が伴うはずもなかった。何を彼は求めているのだろうか。あんなに辛そうな状態に自分をおいこんでまで。
 視線を落とす。ベルは何も言わずまっすぐ前を向きながら二人の話を聞いているようだ。視界の先は、海からいつの間にか大地に変わっていた。
「……突然ごめんね。でもどうしても君の力が必要だったんだ」
 不意に少年の声が沈み込む。その声音に、何か悲壮なものすら感じてユッカが再度顔をあげると、少年の目と視線がかちあった。藍の空に流れる金の髪が綺麗だと思った。
「人を、助けたいんだ。力を貸して欲しい。ただ傍に居てくれるだけで良い。それだけで俺の力は数倍になる。そうすれば、きっと助けられると思うんだ」
 それまでふんわりとした笑みを浮かべていたのに、今その表情は消え去っている。
 失いたくなくて必死なのだ。
 直感的にそうユッカは思った。
「……誰を助けたいの?」
 それが一番気になる。家族だろうか。一瞬そうよぎって、ちくりと胸が痛くなる。
 平気。平気。平気。
 もう私は乗り越えたんだから。
 そう心の中で唱えて顔を上げる。よかった、顔には出なかった様だ。
「……パートナー」
 ユッカの言葉になぜか一瞬逡巡した後、少年はそう答えた。
「君と同じラテルなんだ。一緒に行動してたんだけど、……俺のことを庇って、時を、止められてしまった」
「カイン……君?」
 声が震えていた。
「もう、無理だって、諦めろって言われた。きっと魂までも破壊されているから、諦めて新たなラテルをつれて来いって言われた」
「……」
「でも……」
 諦めるなんて無理だよ……。
 喉元までこみ上げた、どこへ伝えることも出来ない叫びを押し殺すように、ユッカの目の前で少年はうな垂れ唇をかみ締めていた。
 ユッカには判る。失えないものがあること。失うまでその大切さに気づかない、だけれど酷く大切な存在があること。ユッカは永遠にそれを失ってしまったけれど、この少年はまだ望みがあるはずなんだと、挫けそうになりながらそれでも足掻いている。
 何が出来るのかも判らないけれど、助けてあげたい。
 そう思った。

 笑顔が素敵だと思ったから、俯いてしまった頭に手を伸ばしてみた。触れた指先にカインははっと顔をあげ目を丸くし、そのあと恥ずかしそうに笑った。それは無理をして笑ったような痛々しいものだったけれど、やっぱり可愛いくてユッカは笑顔を向け、二人で微笑みあった。
『カイン、到着したぞ』
 ベルの声に視線を進行方向にむけると、白みだした空のしたで、明かりが灯っているのが見えた。松明の明かりのなか、小さくだがテントのようなものが沢山張られているのが見える。
「ああ、あそこだよ。――ねえ」
 振り返り少年は瞳を細める。戻ってきた柔らかな微笑みがふいに消え、まっすぐにその瞳ユッカをみつめた。
「君は一言も帰りたいって言わないんだね」

 帰る気が無い、訳ではない。
 決行は一週間後の月食の夜らしい。ユッカの世界とカイン達の住むエタニカは言ってみれば鏡面世界のようなもかも知れない。時空のねじれた場所には同じ世界があり、そこでは全く同じ人々が住んでいるだとか、全てが正反対の人々が住んでいるだとかいう話を聞いた覚えがあるけど、それに似た感じなのかもしれないわ、とユッカはぼんやりと思考をめぐらせた。だがやはり何かしらのずれはあるのか、月食の夜はユッカの世界よりも少し遅れているらしい。
 テントの一番高く吊られた部分の暗がりを横になって見上げる。テントと言ってもユッカの知るキャンプなどで設置するテントよりも遥かに大きく、かなり頑丈なつくりをしている様だ。
 ようやく日がのぼり出した頃か。普段過ごしているのとは全く違う空気に体も感覚も馴染まず、まんじりともしないまま夜を明かしてしまった。ユッカは寝つきのいいほうだ。ベットに入れば十分もしないうちにころっと寝てしまう。その自分が一睡も出来なかった。
(緊張しているのかしら)
 全く重くならない目蓋を瞬かせる。
 カインと共に降り立った場所は開けた平野に設営された何かの駐屯地だった。視界に海は見えないが何処からか僅かに潮の香りがした。「野生の瘴気に当てられて異形化した魔物が人を襲うんだ。それを防ぐための防衛網を敷いていて、ここはその一つなんだ」そうカインはユッカへ説明し、「ここは最前からは程遠いから大丈夫だよ。最前から一時的に退いた兵士達が集まっているんだ」と付け加えた。
 ラテルとはかなり有難がられる存在らしい。駐屯地にきて直ぐに大勢の人々にユッカは囲まれた。カインの様なユッカとそう変わらない外見のものもいれば、全身毛むくじゃらで犬や狼が二足歩行しているような外見の者まで。中には肌の表面を鱗が覆っているような者もいたが、とにかく次々に握手を求められ何がなんだか判らないまま、とりあえず笑顔を張り付かせひたすら握手しまくった。
 ラテルは「術者」の能力を飛躍的に増幅するらしい。カインの話ではこの世界に連れてこられたラテルは、ここ10年ではユッカを含め知られているだけで二人のみ。記録上にも十数名しか確認されていない。その誰もがまれに現れる異界へわたる術を身につけた術者に連れて来られ、ある者は偉業を成し遂げ、ある者は元の世界へと帰った。カインは言いにくそうにしていたが、結局元の世界へ戻らずにこの世界で一生を終えたものもいるらしい。この世界で死亡したか、元の世界へ帰る手立てが無くなったから――つまり術者が死んだのだ。その事実に不安になり危険は無いのかと聞くと、カインは無いとは言い切れないけれど、助けたい人物がいる場所は既に魔物の制圧が終わった場所で、カイン自身の術によって全てものが石化しているから大丈夫。それに何かもしあったら全力で君を守るよ。そう約束してくれた。
 とにもかくにも、稀な存在であることと、ラテルの持つ特性をこちらの人々は『ラテルの加護』と言って尊ぶらしい。まるで芸能人の握手会のような乗りに最後にはユッカも勢いまかせになって「はいっはいっ」と掛け声までかかる程になり、そのノリに有難い雰囲気は欠片も無かった。
 見上げた暗がりに薄く朝の光が差し込んでいる。大きなテントを衝立やカーテンで仕切ってあり、小部屋のようになった一つにユッカは寝ている。天井近くまでは衝立やカーテンが届いていなくて、その隙間から隣の部屋にあるロープで吊られた干し食料のようなものがちらりと見えた。
 ざりっと微かな物音にはっとする。
 テントの外についていた警護の人たちが交代する時間だったらしい。囁き声は二語ほどで途絶え、砂利の上を歩く小さな足音の後、辺りはまた静寂に包まれた。トリが鳴くにはまだ早い様だ。
(どうしよう)
 不意にそう脳裏に浮かび、ユッカは苦笑した。
『どうしよう』
 一つの言葉がワンワンと脳内で反響し、横になったままかるく頭をふってそれを打ち消す。
 どうしようもないことだ。ユッカには特別な力なんて何もないのだから。有難いだと昨夜散々拝まれた力すら、ユッカ自身で意図的に使える物ではない。
 どうしようもないのだ。ユッカには。
 どうしようもない状況には出来るだけ早くなれる努力をするのが一番。
(今自分に出来ること。今自分が一番したいと思うこと。それを最優先にしよう。――どうしようもないことなんだから)
 前向きなんだか、後ろ向きなんだかわからないわね……と天井を眺めながら再度苦笑する。
 
 帰る気が無いわけではないのだ。帰ったらまずクリスさんに謝らなければならない。それに資格試験前には帰りたい。せっかく勉強してきたんだもの。
(でもとりあえず、今までとは違った現実に備えよう)
 そうユッカは目を閉じた。
 
 鳥の鳴き声が遠くで聞こえた。

 目が覚めたとき、日は既に高く上がっていた。
 一瞬お店に行かなきゃと慌ててからだを起こし、普段とは違う胸深くまで入り込んだ清清しい空気に、自分が既に店へ行くことの出来ない場所に居ることを思い出す。
 ここはエタニカ。ユッカの知らない場所。
 視線の先に畳まれたユッカの服がぼんやりと差し込む日の光に端を照らされている。
 夢では、なかった。
(……服、どうすればいいのかしら)
 ユッカが今来ているのは昨晩カインに用意してもらった白いさらりとした生地でできた寝巻きだ。布を体に巻き、前で紐で結ぶ簡易的な作りで、流石にこの格好で外に出るのは少しいただけない。
 とりあえずもそもそと起き上がって使っていた毛布を畳む。
(この格好じゃ外へ出られないし)
 畳んだ毛布の上に腰掛けて思案する。昨日着ていたのを着てしまおうか。でもせっかく昨夜お湯をもらって湯浴みもできたのに、また上に汚れた服を着てしまいたくない。ぼんやりと頭上を見上げる。分厚い布で仕切られた隣の部屋から男性が談笑している声が聞こえてくる。
「うーん……」
 ま、しょうがないかな?
 息を一つついて立ち上がり、昨日の服を手にとろうとしたその時
「どうかな?良く眠れましたか?」
「ひぁ」
 突然背後からかけられた声に胸が跳ね、変な声が出る。慌てて振り返るとテントの入り口に掛けられた布を片手でよけ、長身の人物が中に入ってくるところだった。逆光で顔は良く見えない。鎧のような物を身につけている様で、その人物が動くたびにガチャガチャと硬質な音がした。
「服の代えを持ってきたんです。サイズ合うといいんですけどねえ」
「……あ、すみま……せん。ありがとうございます」
 上の空で返事をしつつ、ユッカはその人物を穴が開くほど凝視した。
 声は女性か。ハスキーボイスで柔らかい印象。
 髪の色はシルバー、瞳の色は逆光だが多分アイスブルー。で、女性。
 瞬き数回。少しずつ目が急な外からの光に慣れてくる。だがそれと共に湧き上がってくる疑問の数々。
 何故ここに。何故そんな格好を。何故そんな何故そんな。
「いつ……」
「はい?」
「……いつ、性転換したんですか?」
「……今なんと?」
 相手が笑顔を顔に張り付かせたまま首をかしげる。ユッカもそれにつられて首をかしげた。
「クリスさん、いつ女性になったんですか?」
「…………」
 何かを大声で呼ぶようなひときわ鋭い鳥の鳴き声が、テントの布地を通して中へ入り込んできた。
 そしてまた沈黙。
 鎧を身につけたクリスそっくりの女性は暫く沈黙した後ユッカを見つめ、「私は母から生れ落ちたその時から一度たりとも男であった覚えはありません」と重々しく呟いた。
 着替えて外に出ると風が柔らかく頬を撫でて気持ちよかった。テントの中は相当空気がこもっていたらしい。丁度昼食前らしく、風にのってきた雑多な香りがユッカの鼻腔をくすぐった。
 視線を巡らせると昨夜はあまり見えなかった地形がはっきりと見える。春の日のような柔らかな色をした空気の中、視界の先には起伏の少ない平らな台地が広がっていた。テントの張られた地帯を抜けるとその先はまばらに緑が散らばる平野。その空との境界線は白い。潮の香りと、昨夜ベルムの背から見た地形から、そこは砂浜で、その先には海が広がっているのかもしれない。振り返り視線を反対へやると同じようにテント群の先には平野が広がっていたが、霞む水色の空の先に険しそうな山のシルエットが見て取れた。
「クリス……ティンさん!有難うございます」
 何かを煮炊きしている大きな鍋の近くでクリスそっくりな女性、クリスティンはすらりとした男性と談笑していた。その男性より背が高く、おそらく百八十は超えているだろう。鎧が女物でなければ線の細い背の高い男性だと見間違えそうだ。
(ほんと、クリスさんそっくりだわ)
 まじまじとその姿を見つめる。何から何まで、とまではいかないが、まとう雰囲気や顔の造形はそっくりだった。
(昨日カイン君がいっていたのはこの事なのかしら)
 だとしたら二つの世界を挟み、ペアとなる二人の人物とめぐり合うのはかなり低い確率じゃないだろうかと考え、ユッカはなんとなく福引で当たったようなうきうきとした気分になった。
「ああ、よかった。似合ってますね」
 ユッカの声に振り返った彼女が破顔する。ユッカに用意されたのは綺麗なビリジャングリーンの上下だった。しっかりした生地の胸の部分にはあらかじめ防具のような胸当てが縫いつけられていて固く、その無骨な固さに世界が違うことを実感する。だが下はプリーツの入ったスカートで共に揃えてあった黒タイツと白いブーツも細かな装飾がされ、上着の開いた袖の部分にはレースも縫いつけられていて、ユッカは酷くその服が気に入った。
「お古でごめんね。私がまだ小さい頃に来ていた服なんです」
 彼女はそういって、あなた位の女の子はなかなかこの場所にはいないので、それくらいしか見つからなくて、と苦笑する。
「あ、いえ、とても気に入りました。大丈夫です!」
 この人は驚異的な成長を遂げたのだわ……と幾分羨ましく思いつつ心の中でそう呟きつつユッカはきょろきょろと視線をめぐらせた。各テントの前で思い思いに談笑したり、武器の手入れをする兵士達の姿がみえた。目当ての人物は見当たらない。
「あの、カイン君は?」
「――マスターは石の谷だろう」
 それまでクリスティンの隣で話を聞いていた男が始めて口を開く。薄い茶の髪を三つ編みにし、紺に白のステッチが入ったローブを着ている青年。アーモンドの様な形の、薄い紫を呈した瞳は何かを疎んじるように顰められていた。
「石の谷?マスターって……、カイン君なんか凄い人なんですか?」
「石の谷は三年前にあの男が全てを封じ込めた死の谷だ。……自分のラテルまで封じ込むとは笑いもんだが、もう代えを用意するとは、開いた口がふさがらないな」
 無表情で、辛辣に。
 あまりに毒を含んだその台詞にユッカが唖然としていると、クリスティンが苦笑を浮かべ「ケイザン」とその青年を諌めるように声をかけた。
「あの方がそんな人じゃない事は、ほかの誰でもない貴方が一番良くわかっているじゃないですか」
「…………」
 ちらりとケイザンと呼ばれた青年はクリスティンへ視線をやると、その言葉に無言で答えユッカへ向き直る。そのことについては何も離すことは無い、と言外に言っているようだ。
「貴女を悪く言うつもりは無いんだ。気分を害してしまったなら申し訳ない」
「あ、いえ、平気です」
 慌てて笑って手を振る。だが、先ほどまで感じていたうきうきとした感覚は萎んでしまった。
 謝辞を告げたケイザンは、『マスター』について詳しく説明してくれた。マスターとは各分野で特に優れたものに国を超えて与えられる称号らしい。カインはその中のスペルマスターの称号を持った術師なんだといいつつ、ケイザンは言葉の隅に苦々しさをにじませていた。
「もうそろそろ帰ってくると思いますよ。あの方は毎日朝一番で石の谷にいっているんです。ああ、ほらあそこ」
 クリスティンの指差した方向へ目を向けると、丁度テント群を抜けた先に巨大な鳥が舞い降りるところだった。背に人が数人乗っているようだ。傾斜し、また辺りが開けているためわりと良く見える。
「あそこに降り立つはずです。あの場所に空具を置く倉庫があるので、大抵あそこに皆降りるんですよ」
「そうなんですか。あっまたもう一羽……!」
 大空を一度ぐるりと滑空し、茶に青の模様の入った鳥のような動物がふわりと広場に降り立つのが見えた。吹き上がった砂埃が引くと、数人が駆け寄り騎乗者が降りるのを手伝い、また鳥に括り付けていた巨大な鞍を四人がかりで取り外しにかかっていた。その鳥がすみへ引くと、また一羽舞い降りてきた巨鳥へと数人駆け寄って手伝いにいく。
「あの鳥は秘己鳥というんです。誰もが育てることはできないわりと貴重な鳥で、術者の力を糧に育つ、いわば術者の分身のようなものです。術者の影響を受けるので、あの鳥の外見の変化が術者の病気や呪いを見つけるきっかけになることにあります。術者の能力如何によっては言葉を使いこなし、さらに呪文まで覚えるものもいますよ」
「そうなんですか……なんだかすごいわー」
 クリスティンの説明を受けながら飛来する鳥たちを観察すると、なるほどそれぞれ異なった外見をしていた。色にしても鮮やかな南国鳥のようなものもあれば、おちついた茶系の鳥もいる。尾の長さもそれぞれで、ここからは見えないが恐らく瞳の色も様々なのだろう。
(そういえば、カイン君のベルちゃんは赤い瞳だったわ)
 術者の分身であるのなら綺麗な青い瞳でもよさそうなのに、となんとなく考える。だがその毛並みは真っ白で美しく、赤い大きな瞳も吸い込まれそうな深さで綺麗だった。
 ぼんやりとそんなことを考えていたユッカの耳にクリスの声が飛び込んできた。
「あ、ほら、帰ってこられた様ですよ」
「えっ、ああ、本当だわ!」
 大人数で倉庫らしき建物へ運ばれていく空具(乗馬具のようなものだろう。鎧のようなものや手綱、装飾類のことのようだ)を追っていた視線を上げると、青い空をくるりと旋廻した後、真っ白な鳥が舞い降りてくるのが見えた。ベルムだ。その背で青い色が見え隠れしている。
 広場に降り立つと、ベルムが白い長い首を後ろへ回しカインを地面に下ろす。降りたカインは急いだ様子でベルムの首周りに付けた空具を取り外そうと手を伸ばしていた。その手が届きやすいようにベルムが姿勢を低く落とす。
 一人で。
「……なんで、誰もいかないの?」
 重そうな鞍の類はつけていない。だがベルムにつけられたその手綱や体を固定する装具だけでもカインの背丈以上あるだろう。
 だけど、誰も手伝いに駆け寄るものは居ない。
「穢れているからな」
「え……」
 突然耳に飛び込んできた声に振り向くとケイザンが視線を広場へ向けたまま顔をしかめていた。
「穢れているからだ。禁忌を犯した」
「……」
 何を言っているのだろう。そうユッカは思った。視線をクリスティンへやると、彼女は悲痛な面持ちで首を振る。
 視線をまた広場に戻す。一人で思い装具を外す少年を遠巻きにして、倉庫前で人々がその様子を眺めていた。何もしようとせずに。
「放って置けば良い。いつもああだ。あの男もなれている」
「……私、手伝いに行ってきます」
「ユッカちゃん……」
 クリスティンの声に振り返る。胸の奥がちりちりと痛んだ。
「私、禁忌だとかよく事情は知りません。でもどんなに小さな事に思えても、傷ついているかもしれない。小さな痛みが積もり積もって叫びだしたい程になってしまっても、吐き出せないで飲み込んでるのかもしれない。無理やり空気の塊を飲み込むみたいに」
「……」
 私ちょっと行って来ますね!ここ真っ直ぐ行けばあの広場にいけますよね?
 そう笑って身を翻す。
「ユッカちゃん」
 すっとその隣にクリスティンが並ぶ。見上げた先で、彼女は微笑みに苦笑を混じらせていた。
「貴女の言う通りです。関わりを恐れたがために、私達はあの方に酷いことをしていた」
 私も行きます。さ、急ぎましょう。
「はい!」
 クリスティンの苦笑交じりの微笑みにそう返し、駆け出す。
 ふと気になって走りながら振り返ると、ばつの悪そうな顔をしてケイザンはユッカたちを見ていた。
「――あの子は、思慕が憎しみに変わってしまったんです」
「え?」
「マスターはこの駐屯地の人々の中で以前は人気者だったんですよ。明るく聡明で優しくて、マスター号を持つものとして弟子も居た。その中でも一番マスターに懐いていたのがケイザンだったんです。でも親愛していたマスターが禁忌を犯した。その瞬間、彼の中でマスターは憎むべき存在になってしまったのかもしれません」
「……そう、なんですか」
 それは、とても悲しいことだとユッカは思った。カイン君にも、あのケイザンという少年にとっても。
 
 テントの間を抜けて、広場へと出る。並んだ倉庫と傍観する人々の間を抜け白い鳥の元へ。
 「手伝いますよ」と駆け寄った二人に、外した空具を抱え振り返ったカインは数度ぱちぱちと瞬きし、その汗のにじんだ顔に嬉しそうな満面の笑みを浮かべ「ありがとう」と微笑んだ。

襲撃

 地響き。
 少しずつ大きくなるその音にユッカが目を覚ますと、辺りは赤い炎と喧騒に包まれていた。
 それはエタニカに来て5日目の夜。

 何事かと思いテントの外へ出ると、今まで見たことのない程の篝火が炊かれていた。煌々と照らされた中を、鎧を纏った人々が駆け足で駐屯地の外へと向かっていく。
 明らかにここ数日とは違う、緊迫した空気。
(……何が起こってるの?!)
 ただ事じゃない。そう慌ててテントの中に戻り胸当ての付いた服を着込もうとしかけたユッカの視界の端に、見知った姿が見えた。ケイザンだ。
 険しい顔をして駆け寄ってきた彼は、ユッカの隣で立ち止まり辺りを注意深く見回してから、はあ、と深く息を付いた。そしてユッカを見据える。篝火の赤々とした光で逆光になった彼の表情は、ここ数日見かけていたものと大差なくどこか固い印象のあるものだ。だがその瞳にどこか焦りが浮かんでいるようにユッカには感じた。
 どうなってるの?と声をかける前にケイザンが口を開く。
「――既に制圧が終わった南の森から高位の魔が沸いた。不意をつかれ駐屯してた者達は全滅したらしい。……じきにここへも攻めてくる」
「……え」
 全滅。
 不意に飛び込んできた言葉に思考が停止する。
「安全な場所まで護衛する。ラテルは狙われやすい。ついて来い」
 細めた目でケイザンは一瞬ユッカを見つめると、そう言ってひらりとその身を翻した。慌ててその後に続く。
 暗闇を昼であるかのように照らす篝火。場所に拠っては術者と呼ばれる存在なのだろう人影が、自身の近くに明るく光る光球を浮かべているのが見えた。その色はユッカの知る白熱灯よりも少し青みが強い。
 ひたすら広い駐屯地を駆け抜ける。人々が反対方向に走っていくのが息の上がりだした上下する視界に見えた。槍や剣を携えた人々を何度もすれ違う。総出で迎え撃つような、緊急事態なのだろうかと、ユッカは横目でその様子をちらりと見ながら考えた。
 だが目下のところの問題はといえば、
(は、早すぎる……!)
 ユッカは足の遅い方ではない。むしろ高校では陸上部で、上から数え五本の指には入る足の速さの持ち主だ。スタミナは長距離ではなかったが、普通に比べれば段違いにあるはずだった。だが、目の前のケイザンは一向に疲れる様子無く、まるで風のように走る。
「ね、ねえねえケイザン……君っ」
 このまま走り続けていると、とてもじゃないけれど付いていけない。そうユッカは弾みだした息を必死に整えながら何とかケイザンに呼びかけた。それに気づいたケイザンがちらりと振り返り、はっとした顔をし足を止める。
(あ、よかった……少し休めば……)
 でも休んじゃうともっと走れなくなっちゃうかしら等と考えながら、ひとまずほっとして膝に手をあて息を付くユッカの視界が突然、くるりと回った。
「ひゃ」
 思わず声をあげ、視線の先に広がった夜空を凝視する。そして次の瞬間、また周りの世界は背後に流れ出していた。
(ええと)
 上向いていた首を引くと釣りあがった目元をもつケイザンの涼しげな横顔が見えた。
(ええっと、……お姫様だっこ?)
 ぽかんと見つめるユッカの視線に気づいたのか、顔は前へ向けたままケイザンが口を開いた。
「そういえばラテルは術者に力を与えても、本人は無力なんだったな。忘れてた」
「……えへ」
 なにか馬鹿にされた気もしないが怒りにも達しないのでとりあえず笑っておく。平気だから降ろしてと言えればいいのだが、今のところ息は上がりきっていて、だが大きく息を付いて空気を取り込むのも青年の顔が身近に有るため居心地悪く、ユッカは無理やり呼吸を押し殺して息を整えた。
(お姫様抱っこなんて小さい頃お父さんにしてもらって以来だわ)
 ふとそんなことが頭を過ぎり、その僅かな思い出の枝に掴まってするすると意識に浮上しだした黒い塊に、小さく頭を振る。
「よく疲れないわね」
 浮かび上がった望まない塊を押し戻すように声を発する。ユッカを抱えたままケイザンは少しも速度を落とすことなく足を進め、それほど大柄でもないこの体のどこにそんな力があるのか不思議だ。
 ユッカのそんな考えを察したのか、ケイザンはちらりと一瞬だけ視線をユッカにやり「……ラテルの加護があるからだろう」と、いかにも愚問を聞くんだなといった様子で言った。
「俺もメリュジーヌだからな。俺は風の精霊と契約を結んでいるから、風の精霊の力が強まる。ラテルが増幅者であるのは、精霊に愛されるからだ」
「えっ、じゃあ私って愛されてるのね。素敵!」
 なるほどなるほど、とユッカは頷く。するとまた彼は飽きれたように眉をよせた。ラテルがラテルのことを知らないなんて、といったところだろうか。でもしょうがないことなのだ。だって私が自分がそんな存在であることを、私はついこの間知ったばかりなんだもの、とユッカは苦笑し、また視線を流れていく深い藍の世界へと向けた。

 状況は良くわからなかった。時折まばゆい光と雷が落ちるような音が響き、その光の中に一瞬人と、それに対面するような歪な異形のシルエットが浮かび上がる。そして剣戟の音。相手である魔とは、獣以外に剣を持つようなものも居るのかと聞くと、ケイザンからは高位の魔ともなれば人より知識があり、人の姿に酷似したものもいるという答えが返ってきた。先日の一件でケイザンという青年にあまり良い印象をユッカは持っていなかったが、物言いはどうあれ意外と彼は世話好きな様だ。
 肌に当たる風は生暖かく、ぬるりとなぞるように寝着から出た手足に触れ、そのまま次のものへ絡みつきに離れていく。
(このまま彼の言う安全地帯に行って、じっとしていれば終わるのかしら)
『この地で命を落とし、元の世界に戻らなかったラテルもいる』
 ふと、カインの言っていたことが脳裏を過ぎる。だが周りで人々が戦っていることは判っていて視界にも耳にもそれらは届いているのに全てはどこか遠く感じられて、ただユッカは出来るだけケイザンの重荷にならないように体を縮こまらせつつ、彼の進む方向を眺めていた。息を殺すと走る振動の合間で、あたった体の側面に別の僅かな鼓動が伝わってくる。自分の内側から響くものか、それとも彼のものだろうか。
 駐屯地を抜けると広がる平野にポツポツと小さな光がほぼ等間隔に連なっていた。誰も居ない中光るそれは、横を走り抜けると小さな石であることが見て取れた。
 光に沿って走る。篝火の光が失われた為にあたりの気温が下がった様で、肌を舐めていく風に寒さを感じてユッカはむき出しの腕をさすった。
「……もうじき着く。結界が張ってある場だ。内側にはどんな魔であっても術者がそれを解かない限り……」
 ふいにケイザンの声が途切れる。ユッカがどうしたのと聞く前に、ケイザンはその足を止め無言でユッカを地面に下ろした。
 暗い。
 少し前に通り過ぎた光石の明かりが視界の端にちらつくが、それは妙に遠く、心細い。
「……着いて来い」
「う、うんっ……!」
 二の腕を掴まれ引かれる。じりじりと足を進めるケイザンを取り囲む空気は張り詰めていて、ユッカは息を呑んでその後に続いた。
「じきにマスターも此処に来るはずだ。そう心配することはない。――が、少し様子がおかしい」
 潜めたその言葉にユッカが視線をあげると、隣に佇み少しずつ足を進めるケイザンの薄紫の瞳は周囲を注意深く見回すように細められていた。その様子に、ユッカもまた表情を強張らせる。
 様子が、おかしい。
 安全な場所。戦力には未だならない負傷した傭兵達が、結界を保つ術者と共に戦闘が終わるまで待機しているらしい。だが――
 視界の先の稜線が黒く、少しずつ迫ってくるように見える。黒々とした平野の闇は深く、うごめく何かを潜めているように感じられる。だけれどそれは人の気配ではない。人の気配は、ユッカには感じ取れない。
 おかしい。おかしい。
 有るべき呼吸が、無い。
「ケイザン、君……」
 覚えのある、感覚。
 少しずつ知りたくも無いことに近づいている、そんな空気。
「ケイザン……君っ、ねえ、戻ろう」
「……」
 ユッカの言葉に、ケイザンはいぶかしむような表情を隣に立つ少女へと向けた。
 ケイザン君もどろう。
 ユッカは再度呟く。
 その様子に並々ならないものを感じ、ケイザンは足を止めた。
 あと数十歩もあるけば結界が張られている場所に着くはずだ。皆、明かりを灯せば見える範囲の闇の中に息をひそめ、誰かが安全をつげにくるのを待っている、はずだ。
 だが、湧き上がる胸騒ぎに、ケイザンは足を進めかねていた。確認に行かなければ行けない、だがこの少女を連れて行っていいものか。おさまらない胸騒ぎが歩みを進めることを躊躇させる。
 視線を落とすと俯いたままのオレンジの髪が細かに震えていて、ケイザンが声をかけようとしたその時、場違いな声音があたりに響いた。
「ああ、良かった!お二人とも無事ですね!」
「……クリスティン?」
 声のした方向へ振り返ると、女物の甲冑を着けた細身の長身が闇の中から現れた。口元には見慣れた微笑が浮かんでいる。
 ケイザンの声に、俯いていたユッカが顔を上げる。その瞳が現れた女性の姿をとらえ、口元がほっとした笑みの形に形作られ、――そして中途半端に固まった。
「戦闘がそろそろ終わります。さあ、結界で待っている皆のところに伝えに行きましょう」
 そうクリスティンは歩みを進め、二人の横を通り過ぎて結界のある暗闇へと足を勧めだす。
「いやー疲れました。でもなんとか負傷者も少なくてすみそうですよ」
 ケイザンの隣で、少女の視線が足を進める長身の女性の背中へと注がれる。
「……違う」
(……っ)
 少女の口から漏れた言葉に、ケイザンははっとしてクリスティンへと鋭い視線を向けた。ユッカの声を聞き取ったのか、クリスティンはゆっくりこちらを振り返る。笑みを浮かべたままのその顔がゆっくりこちらへ向けられ――僅かな明かりの中で、どろりと、溶けた。
「まさか……っ!!」
 咄嗟にユッカを自分の後ろに引き下げ、手に光球を生み出し頭上へと打ち上げる。まばゆい光が、三人と、そして結界の張られた暗がりを照らし出した。
 風向きが変わる。
 途端鼻に付いた匂いと、視界に飛び込んできた光景にケイザンはその瞳を極限まで見開き絶句した。
「ほら、早く結界の皆に伝えに行きましょう。もう終わりましたよって」
 顔の融解したクリスティンがそう言いながら、じゃり……と結界のある方向ではなく固まった二人へ向かって足を進める。
「貴様……っ」
 視線を無理やりクリスティンの背後に広がる光景から引き剥がし、クリスティンの姿をした何かへと向ける。
 結界は、解かれていた。その効力を失っていた。
 折り重なる、無数の死体の流す紅い血の下で。
「貴様、騙ったか……!!」
 仲間の振りをして内側から結界を解かせたのか。その問いに答えることなく、どろりと溶けた液体の隙間から赤い光が覗く。高位の魔族特有の紅の瞳。それは歪み、嫌な笑みを浮かべたように見えた。
 い。
 いや。
「……っ?!」
 その魔の体が跳ね上がり、ケイザンとユッカへと飛び掛る。咄嗟に指先で術を編む為の印を切ろうとしたケイザンの背後で、小さな声がこぼれる。
 い、いや。
 その尋常ではない何かを孕んだ響きに、思わず一瞬隣へ視線を動かしたケイザンの視界に、その大きな瞳を極限まで見開き、広がる赤を凝視するユッカの姿があった。
 呟きを発した口はわなわなと振るえ、開き、
 音が――弾ける。
 
『いやああああああああああああああああああああああああああっ!!!!』
「……なっ……!?」
 途端、ケイザンの手のひらで、編んでいた力が膨れ上がる。目が潰れそうな白熱光。自らの生み出せる以上の力の暴走に、その力を制御できずにケイザンは咄嗟に目の前に迫ったクリスティンの姿をした魔へ向けて放つ。
 その存在が声を出す間もなく、跡形も無く光がその姿を飲み込む。
 
 数瞬後、戻ってきた暗闇と静寂の中、とさりと、少女の倒れる小さな音が響いた。

 「ただ今」とドアをあけ、リビングへ足を進めて、赤に浸った父を見つけた。抱き起こして、心音を確かめ、のろのろと立ち上がる。震える声で皆を呼んだ。お母さん、お父さんが。そして隣の部屋で、同じように赤をみた。母も赤に浸って、階段の踊り場で弟が同じように赤を零していた。みんな、動かなかった。
 珍しくない、時折起こる事件の一つ。ただの通り魔事件。
 ただの。だけど、私にとっては「ただの」なんかじゃなかった。

 平気だ、平気だと自分は言いながら、何も平気ではなかった。
 嫌になっちゃうなあ、と小さく苦笑しながらテントの外へ出ると、空は青く晴れ渡っていた。
 意識が途切れた後、カインとクリスティン(もちろん本物の)達が駆けつけたらしい。ユッカとケイザンのいた結界付近は既に多くの魔に囲まれていて、彼らが来なければ危ういところだったと、ユッカが目覚めて直ぐに声をかけてきたケイザンに聞いた。
 足を進める。昨夜を戦い抜いた傭兵達は今はその体を休めているのか、警備の者がまばらに立ってはいるが、全体的に人影は少なかった。
 駐屯地の端にあたる平野に広がる青の下に一人、金の髪の少年は佇んでいた。その足元は昨夜流されたのであろう染みが白い土を汚していて、ユッカはそれが視界に入るなり足元が浮き上がるような感覚と、込みあげる嘔吐感に思わず歩みを止める。
 小さな声が耳に届く。少年の発している小さな呟きは、やがて穏やかに歌うような詠唱へ変わる。柔らかな動きで伸ばされた手から水のようにキラキラと零れだした光は、その足元に広がる色をすぅっと消し、同時に辺りに漂っていた淀みまでもを消したようだった。
『浄化している』
 カインの居場所を聞いたユッカにケイザンは僅かに顔をしかめながらそう言った。「基地の空気を浄化して回っているんです。普段は土をかけて終わらせるんですけど」そうクリスティンが続け、「もう少し待ってくださいね。昨夜からやっているのだけれど、まだ触りがあると思うから」と外へ出ようとしたユッカを押しとどめた。もう殆ど大丈夫だとクリスティンが声をかけてきたのはそれからゆうに三時間はたってからだった。
(気持ちいい……)
 ユッカの目の前で辺りの空気がわかるほど清浄なものに変わっていく。無意識に止めていた呼吸を再開すると、澄んだ空気が胸に入り込んで内に溜まった靄をやわらげてくれた。その視線の先の彼が発する歌が空気に解けるように止み、伸ばされていた手が下ろされ、そしてガクリと、少年はその場に膝を付いた。
「っ、カイン君?!」
 慌てて駆け寄るユッカの声に肩を揺らしてカインは振り返り、また立ち上がろうとする。だがその足はまだ覚束ない様子で、ユッカが支えた肩は荒く上下していた。
「ご、ごめんね。ありがと」
 汗の浮かんだ顔に微笑みを浮かべ立ち上がる。その頬は誰かに殴られたのか赤く腫れていて、どうしたの?と聞くとカインは「ケイザンに殴られちゃった」と苦笑した。
 そして辺りを見渡し、ユッカへまた視線を戻す。
「此処で最後だと思うから、もう基地内どこを歩いても大丈夫だよ」
「……カイン君、夜からずっと?」
「んー……ユッカちゃん体調は平気?」
 ユッカの問いに曖昧な笑みを浮かべ、カインは答えることなく話を切り替えた。だからユッカはその微笑に満面の笑みを返して答える。
「うん、もう大丈夫!こんなに空気が美味しくなったんですもの!」
 その言葉によかったーとカインはふわりとした微笑みを浮かべ、カイン君は?とユッカの返した言葉に「俺は大丈夫」と笑った。
 平気、大丈夫。
 その言葉にユッカはどこか規視感を感じつつ「そう、よかった」と返すと、少年はユッカを見つめかえし、そして瞳を伏せて少し沈黙した。そして再度真っ直ぐにユッカへとエメラルドの瞳を向け、少年はまたその唇をひらいた。
「ごめんね」
「……」
「ごめんね……。俺は自分のことばかり考えて、君が何を抱えているのか考えもしなかった」
 ごめん、ごめんなさい。そう口にし顔を歪めてカインは頭をたれる。その様子があまりに悲しくてユッカはその頭へと手を伸ばした。
 彼に対する怒りは無い。でも自分は大丈夫といえるほど大丈夫ではなかったことも自覚してしまった。だから口元にまで出掛けている「大丈夫」はどうしても言えなかった。
 だから、何も言わずにその頭に手をあて、撫でる。びくりと肩を揺らして、少年は顔を上げた。エメラルドの瞳が揺れる。大人びた表情を浮かべ続けていた少年が、今はとても幼く見えた。
 ――必死なのだ。
 助けたい存在がいて、だけれどその為だけに周りを無視出来る程少年は強くはなかった。
 優しすぎて、その為に脆くて、重すぎる自分のエゴに崩れそうになりながら、それでも譲れない願いの為に僅かな可能性にすがり付いている。
 彼は自分のエゴをエゴだと判っている。だから今こうやって私に謝っている。きっと謝ることもまたエゴであることも彼はわかっていて、それでも謝らずには居られないほど優しくて、そして脆い。
 全ては譲れない思いの為に。
 でも、だからこそユッカは微笑むことが出来る。その気持ちは、嫌というほど判るから。
「……助けたいんでしょう?」
 ユッカの言葉にカインは目を見開く。そして泣きそうな顔でうん、と頷いた。
「貴方の失えない人なんでしょう?」
 うん。
 再度声もなく。
「じゃあ、助けに行こうよ」
 失えない人。大切な人。
 私はもう居なくなってしまったけれど、貴方はまだ間に合うのだから。
 
 
 ユッカが微笑むと、カインは一粒涙をこぼして「ありがとう」と呟いた。
 

大丈夫

 空が高い。そうユッカは藍に暮れた夜空を見上げて思った。パチパチと火の爆ぜる音。揺らめく橙の光が視界の端の木の葉の影を揺らめかせている。
「だから、あいつがいなきゃ」
 その声を発するというよりは、声を零したような小さな呟きに顔を戻すと、向かい側に座った金髪の少年が眠そうに細めた瞳で焚き火を見つめていた。もう話し続けて随分経ち、夜も更けてきたころだ。彼の背後の木の下でクリスティンがベルムの羽根を撫でながら何か話しをしているのが視界に入り、その様子に一瞬目をやり、また手前のカインに視線を戻すと、伏せた瞳が不安そうな色を湛えて揺れていた。
「大丈夫よ」
 思わず出した声が大きくあたりに響いてしまいユッカは自分の声に肩をすくめ、向かいのカインへと笑って見せる。
「……カイン君なら大丈夫。精霊は思いの強さに力を貸してくれるんでしょう?だったら絶対大丈夫よ。だって世界を超えるほどの思いを持っているんだもの」
「……うんっ」
 ユッカの言葉に顔をあげたカインが微笑む。その微笑にユッカも同じ表情で返した。
 カロン……と柔らかな音を立てて薪が崩れ、ひときわ明るい火がはじけた。

 襲撃の翌日、丸一日使ってカインとは多くの話をした。カインはユッカを退屈させないようにと色々気をを使ってくれたのか、本来そういう性質なのか、それまでも色々なところに連れ出してくれたが、これほどお互いの事を多く話したのは始めてだった。
 この世界(エタニカ)のこと、ユッカの世界(テトラ)のこと。カインのこと、ユッカのこと。
 カインは外見こそ十代後半の少年だが、実年齢は相当いっているらしい。メリジューヌは寿命の長い種族らしく、本当の年齢を聞くと「忘れちゃった」とあっけらかんとした言葉が返ってきた。
 ユッカの家族の話もした。
 ごく普通の家庭だったけれど、夜遅くに大学から帰ると全て奪われていたこと。突然一人になってしまい、クリスティンの対であろう知り合いのクリスという人に仕事を世話してもらったこと。血がだめなこと。まだ、きっと――抜け出せていないこと。話さなくてはと思ったすべてのことを話し、そのすべてをカインは相槌を打ちながら、時には静かに微笑みながら聴いてくれた。
 犯したという禁忌の話こそしなかったが、カイン自身のことを彼はこの世界の話を踏まえ、たくさん話してくれた。生まれた時から法術士を養成する学舎にいて、物心つくまで先生や生徒たちを親と兄弟だと思っていたこと。修行のこと。「ケイちゃんは、ちっちゃいころはくりんくりんの天然パーマで可愛かったんだよ」なんて話まで出てきてカインの年齢が気になる上に、あのつんと澄ました青年の隠された過去を想像すると自然と笑みがこぼれた。
 そしてパートナー。
 ユッカと同じラテルであるというその人は紅砂という男性らしい。名前の響きからしてユッカの住む地域からかなり離れた土地出身かもしれない。彼はユッカの世界へ来たカインと出会い、自分の属する世界を捨て、エタニカへ来た。
 魔物討伐の為に各国を跨いで作られた討伐組織にカインは属していたが、集団で狩をする討伐団には組せず紅砂と二人で各国を回っていたらしい。そして当時交通の要所であり、高位の魔の住処として攻略最難関地区であった谷を二人で制圧。だが紅砂が犠牲となった。谷の主である魔獣が相手だった。ラテルの力を得て増幅したカインの石化呪文をも、その魔獣だけは石化しながらもカインへとはじき返し、カインを襲った力をカインの変わりにパートナーが受け、物言わぬ石と化した。いつまで経っても帰らない二人に、クリスティンが谷へと駆けつけた時カインは呆然と、自身の力で石化したパートナーの前に座り込んでいた。それからカインの力でテトラへわたることの出来る夜が来るまで5年。ずっと待ち続けた5年。そして限られた時間の中でユッカを探し当てた。
(全て明日で終わりなんだわ)
 明日の夜、谷へ向かう。全て明日。ユッカはカインがパートナーにかかった術を解いた後、直ぐテトラへ帰してもらうことになっている。全ては、明日で終わり。
(少し寂しいかもしれない)
 見たくないものも見た。自分の弱さも自覚した。だけど、こんなに羽根を伸ばしたように感じたことも久しぶり。きっと、自分は体を縮こまらせていたのだ。
「ユッカちゃん、風邪引くよ?」
「うん、もうちょっとだけ、まったり……」
 そろそろ寝る準備しないと、と立ち上がったカインの声にそう答え、瞳を閉じる。駐屯地を柔らかな夜風が頬を撫でていった。
 翌日夜半、ベルムの背に久しぶりに乗り駐屯所を発った。
「見えてきました!ほら、あそこ!」
 風の音にかき消されないように張り上げたクリスティンの声に振り返り、ユッカは息を呑んだ。山の合間から立ち上る青い光。ベルムの背から見下ろした岩山の一角が、青く光り輝いていた。
 石の谷。その語感からは考えられない美しさで谷はそこに在った。
「マスターの放った力の名残が、結晶化して光を放ってるんです」
 そうクリスティンが説明してくれる。視線を隣に座るカインへと向けると、その横顔は静かに光を見つめていて既に谷のパートナーの元に心を飛ばしている様だった。石化した魔物たちに囲まれ一人、時を止めている男性。それも今夜終わりをつげ、ユッカももとの世界に戻れる。
 だが――
『……近づけない』
 おもむろにベルムがそう口を開き、「どうする」と前を向いたまま視線だけ背後のカインへと寄こした。「え……」と掠れた声を漏らし、エメラルドの瞳が眼下を凝視する。ユッカとクリスティンの視線の中、僅かに震える唇が「谷の淵へ」とだけ告げた。
 谷の淵へ降り立ち青い光を湛えた空間を見下ろすう。月の光がかけてゆき、谷から立ち上る青い光の粒子がその明るさを増す。カインが紅砂の力を借りて発動した力の破片が今も、一人残ったパートナーを包んでいる。その神秘的で柔らかな光。だが、その中で動くいくつもの影。その多くが四足の獣の形を取っていて、体を休めていた。
「困り……ましたね」
「……魔物?」
 ユッカの呟きに答えず、カインは沈黙したまま一点を見つめていた。視線の先を追う。谷の内部でもひときわ高くなった岩石の上、放射線状に分布した青い光石の中心にその存在は在った。巨大な長剣を構え今まさに魔物たちへ斬りかからんとするような、だけれど時を止められた男性。だがそれと共に数日前に見たものと同じ光景が飛び込んできて、発しそうになった声をすんでのところで押さえユッカは視線を背けた。
 血の赤。
 はっとしたクリスティンがユッカの肩を支える。
「魔物たちだけ、石の呪縛を逃れている。力が、強まっているのでしょうか……」
「封印……したのに……っ」
 呆然とカインは呟く。と、その時突然響いた羽音に、カインを残した二人は振り返った。見覚えのある姿が大きな黄みがかった秘己鳥から降りてくる。ケイザンだ。彼はこちらへ視線を向けると「間に合ったか」と声を漏らした。
「貴方がたが発った後、旅の一団が石の谷で消息を絶ったと連絡が入ったが……なるほど、こういうことか」
 青い光の中で広がる血の跡。魔物に弄ばれたらしいかつて人であったものの残骸。一体は助けを求めたのか、物言わぬ石像の元へ這うような形で倒れている。
 赤。血の赤。こみ上げる嘔吐感にユッカはえづき、背を丸める。鼓動が早まる、頭がぐらぐらとゆれる。周りの音が遠ざかる。
(見たくない見たくない見たくない見たく……)
 だが、不意にはっとして、顔を上げる。ユッカの視線の先で、カインが呆然と谷を見下ろし立ちすくんでいた。瞳が揺らめき震える。
(いけない……)
 直感的にユッカはそう思った。きっとこのままだと、カインは決断してしまう。あれだけ思っているのだから、彼はパートナーの為にユッカを引きずってでも血の匂いのする谷の奥へ連れて行くだろうか。その為に下した決断で、自分の心を傷つけながら。それとも「大丈夫だから」と微笑んで一人ででも行こうとするだろうか。大丈夫じゃないのに、私みたいに自分を偽って。
(でもそれじゃ駄目……!)
 そう、彼が決めるのでは駄目。今は私が決めなきゃいけない。ここは、私が進んで行かなきゃいけない、絶対。
「――カイン君行こう!」
 そう思った瞬間、ユッカはそう声を上げていた。
「ユッカちゃん?!」
 傍らのクリスティンが声を上げる。カインは目を見開き「で、でも……」と弱々しい声を漏らした。瞳が語っている。『でも、君はそんなに辛そうなのに』と。確かに今も足元は浮いているようで、吐き気は込み上げてきている。気を抜いたら直ぐにでも意識を飛ばせるだろう。だけど、行かなきゃ行けないのだ。だからユッカはしっかりとカインの瞳を見つめて微笑む。するとすっとそれまで沈黙していたケイザンが、ため息をつきカインの隣立った。
「援護します」
「ケイザン君?!」
 クリスティンが再度声を上げた。確かにそうだ。彼はあれほどカインを嫌っていたのに。だが、ケイザンは驚くカインの横を通り抜けると谷へ降りる崖の淵へ歩みよる。
「ここから駆け下りましょう。風の機嫌が良い。全員支えるくらい出来ます」
 振り返り、カインを睨み付ける。
「死んでいる貴方を見ているとイライラする。さっさともう半分を取り戻して生き返ってください」
「ケイちゃん……」
 へにゃ、とカインが眉を下げる。その呟きにケイザンはむっと眉を寄せ「ケイちゃんって呼ぶな!」と苛立った声をあげると、だっと崖を駆け下り出した。心に暖かなものが広がり、ユッカは満面の笑みを浮かべる。
「カイン君!いこう!」
「うわっ」
 カインの手を取りケイザンの後に続く。急な斜面はケイザンがサポートしてくれているのか、楽に滑り降りることができた。そのまま魔物の群れの中を手を引きながら走り出す。続いて降りてきたクリスティンが「しょーがありませんねー」と言いながら横に並び、細身の剣を抜き放った。直ぐにうなり声を上げて魔獣達が襲い掛かってくる。それをケイザンとクリスティンがはじき返していく。
 ユッカは走る。目指すのは谷の奥……!
 ふいにぐいと繋いでいた手に力が込められ、次の瞬間ユッカに手を引かれていたカインが隣に並んだ。ユッカに視線を向けて少年はしっかりと力強く微笑むと、ユッカの手を引いて前へ走りだす。
 ごつごつとした岩の上を所々青く光る結晶が覆っている。その密度が足を進めるうちにどんどんと高くなる。赤い血の色も見えた。直ぐ傍を通った。視界がぶれる。足元がふら付く。だけど耐えた。だって、私は一緒に行かなきゃならないんだもの。
「マルコシアスだ……あいつも……っ」
 ふいにカインが左手にちらりと視線をやり、足を速める。左手にそびえる岩壁の、いり組んだ奥でゆっくりと首をもたげる姿が見えた。大きい。マルコシアスと呼ばれた魔獣は飛び掛ってくる魔物達の数十倍の巨躯を持っていた。見上げる程の獅子。だがその背には蝙蝠のような羽があり、尾は蛇のようだ。ゆっくりと瞳が開かれ、金の双眸が二人のの姿をとらえた。だがカインはひるまずに襲い掛かってくる獣達を手に込めた光弾で弾き飛ばしながら走る。
(この魔獣が……)
 カインの術を跳ね返したのはこの魔獣なのだとユッカは直感で理解した。そう、相対する位置にある大きな岩の上で今も彼のパートナーは剣を構えているのだから。
 あと、少し。だが視界の端で獅子が口を開く。鳴動するうなり声。空気の振動する音と共に巨大な力が獅子の鼻先に練り上げられていく。岩を、駆け上がる。背後から襲い掛かってきた狼のような魔物を振り向きざまに眩い閃光で弾き飛ばし、ぐい、と力強くカインがユッカの手を岩の上へ引き上げる。
「ユッカちゃん、力を貸して――!」
「もっちろん!」
 物言わぬパートナーの前に少年が立つ。石と化し、巨大な剣を両手に構えた両刀の剣士。柔らかで明るいカインとはまた違う魅力の、野生的な鋭い瞳を持つ長髪の男性だった。長いコートが、髪が、風になびいたままの形で時を止めている。その視線は傍らに立っていた存在へと眼差されていた。きっと最後の一瞬、見つめたのだ。口元に苦笑を浮かべ、そんな顔すんじゃねぇよと。
 風が髪を煽る。カインがパートナーの前に立ち詠唱を始める。低く高く、歌うように、柔らかな旋律。透き通った空気が湧き上がりだす。だけど背後でも力は育っている。うなり声、渦巻く風、黒く禍々しい、膨れ上がる塊。獅子が立ち上がり猛々しく吼える。カインが伸び上がり光を迸らせた右手を物言わぬ片割れの、固い胸に押し当てる。咆哮とと共に黒き力が放たれ、迫る。見る見るうちに巨大な力が視界一杯に広がり、辺りの空気を根こそぎ取り込むように風が吹き荒れる。え、まさか、これで終わりってことないよね?
(か、カイン君――!?)
 眼前まで迫ったその黒球にユッカが思わず目を瞑ったその時――
 ザン……ッという音と共に、足元から風が巻き起こった。
(え……)
 顔を上げる。迫ってきていた魔の力が四方に千切れ力を失っていくのが見えた。そして、振り下ろされた二刀の大剣。すらりとした、だが着込んだコート越しにも筋肉が綺麗についていると判る体。そして肩より少し長い黒髪。
「力は……、落ちてないみてぇだな」
 何ということ無いように彼はそう呟き、すっと背を伸ばし立つと片手の剣を背中の鞘に戻す。ブン、と残った紅い長剣を軽くふると、彼は振り返りニヤリと口元に笑みを浮かべ、その鋭い紅の瞳を細めた。手を差し伸べる。ベルムの瞳とはまた違う、透き通った紅の瞳がユッカの後ろへと向けられた。跳ねるようにユッカの脇を通りぬけ金髪の少年は彼の元に駆け寄ると、その手に手を重ねる。そして流れるような動作で振り返った。
「ユッカちゃん!!」
 ふわりと、鮮やか過ぎるほど鮮やかなとびっきりの笑顔で、彼もまたを手差し伸べる。こちらへ。
(ああ、大丈夫……!)
 その笑顔を見た瞬間ユッカはそう思った。この瞬間、私は全て大丈夫だって言える――!
 胸の奥から湧き上がる喜び。今すぐ大声で叫びたい程の暖かな塊がぐんぐんと込み上げる。
「はい!」
 そう大声で答え、パシッと、ユッカはその掌に手を重ねた。
 首が痛くなるほどの巨大な獅子が、谷の岩壁を背に低いうなり声を上げ突然地面を蹴る。背の羽根がばさりと旋風を巻き起こし、尾の蛇が鋭い声を上げて牙をむいた。だが駆け込み薙ぎ払おうと振られたその巨大な前足を、紅い刀身で紅砂が受け止め、弾き返し、さらにその足に三年分のお返しだと言うばかりに思いっきり蹴りを叩き込む。
「はっ」
 怯み数歩後ずさった獅子を鼻で笑った彼は、再度傍らのパートナーへ視線をやり何か合図するかの様に不敵な表情を浮かべ、カインの隣で剣を構えなおした。その視線を受け止めたカインもまた、同じ活き活きとした笑みでそれに答えると、すっと両手を左右に開き、徐に唇を開く。
 光が、溢れる。
(綺麗……)
 カインを中心にして、浮き上がるように3人の足元に出現した巨大な魔方陣から、迸る光の奔流が空へと舞い上がる。それはまるで流れる水のよう。柔らかな歌声は藍の空へ風と共に広がりわたる。空気が、変わる。
 ユッカはその煌きを見渡し、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
(石化呪文じゃない……)
 聞き覚えのある旋律。それは何処までも伸びやかに響き渡る浄化の歌。カインは浄化しようとしているのだ。ラテル二人分の力で。
 声が高まる。微笑みながら、柔らかく柔らかく。空へと思いが届くように。
 魔物たちが動きを止め、キラキラと舞いあがる光の粒を見上げる。
 ――大丈夫。ユッカはその光景を再度そう思った。
 もう、大丈夫。
 空気が澄み渡っていく。
 柔らかな煌めきは弾け、雨のように谷へと降り注いだ。

エピローグ

 谷から上がると月は既に殆ど隠されていた。
「あと一日くらい居る気ないかな?お礼したいし」
 空を見たカインがそう言って首をかしげる。
「紅砂も一緒に行けば、月が力を取り戻しても十分渡れると思うし……」
 無理?と両手を握られて聞かれる。だがユッカは笑ってそれを断った。
 来る時あんなに苦しそうだったのだ。幾らラテルの力があろうとも、術者にかかる負担は大きい気がする。それにエタニカとテトラでは時間の流れがそう変わらないらしい。つまりユッカは一週間まるまる店を無断欠勤したことになる。
(帰ってまずすることは、クリスさんに謝ることだわ)
 苦笑し、ユッカははねまくっている髪を両手で押さえた。
 ユッカの返答を聞きカインは残念そうに肩を落としたが、じゃあ代わりに、と袖に手を入れて何かを取り出した。シャラン、と透明な音がしてユッカの眼前に差し出されたカインの手から銀の光がはじける。
「うわあ、綺麗……!」
 揺れるその光をみて、ユッカは思わず歓声を上げた。
 青い石から彫られた鍵が銀の鎖に取り付けられたネックレス。手にとって見ると非常に細かい細工がされているのがわかる。鉱石の発する青い薄明かりの中でもそれはキラキラと星が瞬くように光った。
「えへへ、俺が彫ったんだよー。原料はここの谷の青い結晶!」
 思い出になるでしょ?とにこにこと微笑みながらカインはユッカの手からそれを再度手に取ると、すっとユッカの首にかけてくれた。
「向こうは月が隠れていないから、渡ったら直ぐ俺は帰らなくちゃいけない。だから先に言っておくね」
 本当に有難う。
 瞳を細めて、幸せそうに。
 その笑顔にまた喜びが込み上げてきてユッカはふにゃ、と顔を綻ばせた。
 クリスティンとも握手する。「無茶をするんですから」と微笑んで銀髪の女剣士は「お疲れ様」とユッカの頭を高い位置からぽんと撫でてくれた。「ユッカちゃんの世界の私に、宜しく言っておいて下さいね」という言葉に笑って答える。信じてもらえないかもしれないけれど、とりあえず話してみよう。そう思った。
 引いた場所でベルムと会話していた紅砂もユッカに気づき軽く手を挙げる。その様子にカインが「もー」と声をあげ、彼の代わりか、再度ユッカに「ありがとね」と微笑んだ。
 そろそろ……、というカインの隣に急いで並ぶ。足元が淡く光りだし、あの夜みた文様を描き出す。
 風。そして浮遊感。
「ユッカ!」
「えっ?」
 突然呼ばれ声のした方へ振り返ると、遠巻きに眺めていたケイザンがすたすたと前へ歩み出た。固い表情がふっと緩められる。
「お疲れ」
 そう言って、彼は微笑んだ。
 一瞬その笑顔にあっけに取られ、一拍後、ユッカは満面の笑顔で微笑む。
「……うん!お疲れ様!」

 噴水の水が月の光を映して揺れ、離れたところに街灯の明かりが見える。 戻ってきた場所はアパート前の公園だった。
 静かな夜。
 唐突に蘇った感覚と、一週間ぶりの世界にどこか呆然としながらユッカは辺りを見渡した。
「……くっ」
 突然聞こえたうめき声にはっとし振り返ると、真後ろでカインが汗を浮かべて立っていた。その姿は既にほのかに光りだしていて、彼がユッカの視線に気づき微笑みを浮かべる。
『じゃあ、行くね』
 頭に直接語りかけるような声に、ユッカは慌ててカインの傍から離れる。少年の足元にまた魔方陣が浮き上がり、キラキラと光りだす。バサバサと服が煽られ、魔方陣の中心でカインがユッカに微笑みかけ、――そしてふと何かに気づいた様に空を振り仰いだ。
『…………ユッカちゃん』
 見守るユッカに向き直る。
「……っ」
 一瞬、そのエメラルドの瞳が紅く光った様にみえ、ユッカは息を呑む。だが次の瞬間には、柔らかなカインの微笑みがそこにあった。
『ありがとう』
 少年の体が光に包まれる。風が巻き上がる。そして全てが光の粒になり、ふっと掻き消えた。

 木々が風にさわさわと音を立てる。
「行っちゃった……」
 ふぅ、と息を付いてユッカはくるりとアパートに向かって歩き出しかけ、自分の格好にぎょっとする。服を忘れてきてしまった。今着ているのはクリスティンにもらったビリジャングリーンの上下だ。
(返しに行くことも出来ないし、これもお土産としてもらっとこう)
 苦笑して服の埃をパンパンと払う。
「さー、どうクリスさんに説明しようかな」
 とりあえず自宅へ足を進めながら頭をひねる。誘拐されてましたじゃ大騒ぎになりかねない。いっその事全部覚えてないで通してしまおうか。
 そう階段を上がりながら考え、ふとユッカは首元を探った。青い鍵のネックレス。アパートの入り口に灯された明かりに掲げる。
 チカリ、光る。

『―― ま た ね 』

 その瞬間、そう少年の声が聞こえた気がした。

 そしてそれは突然に end