Episode1: 謎めく封術士と水の街 - プロローグ

 

ふと呼ばれたような気がして彼は振り向いた。
鬱蒼と茂り、ひとかけの空すら見えない森は足元の鉱石が発する光でゆらゆらと青や紫に揺らめく。
その様は神秘的で、だが魔術的でもあって、厚手の皮マントを羽織ったシンプルな旅装束の彼をも照らし出し、森の中に取り込もうとでもしている様だった。
脚を止め彼はゆっくりと森を見回す。
ひそやかに息づく森の精霊たちは、息を潜め彼の挙動を伺っている。
「……」
フードを目深に被り僅かに覗く口元が一瞬、何かを言おうとするようにほんの少し開かれ、また結ばれる。
彼は理解していた。
自身が招かれざる客で、だが森の住人たちはそれを過去の盟約に従いじっと耐え、黙認しているに過ぎないということを。
シャララ……と、静まり返った森の中で、時折光をはじくような透明な音を立てて高い木々の合間から舞い落ちるものがある。
彼はそのひそやかな煌きを見上げ、また足を前に踏み出した。
木々の合間から舞い落ちたそれは、足元にガラスの破片のようにつもり、歩みを進める度に足首ほどまでの水中でふわりと浮き上がった。
この森の木々が、自らを守るために張り巡らせた力の膜の破片。
森を取り囲む光を内包したその膜は、役目を果たし終えると剥がれ落ち、こうして足元に降り積もる。
外から見ればこの森は広大な広さを持つ、帰らずの森の一部で、生ける者が森と森の境界の膜に知らずに足を踏み入れれば膜の中の幻影に惑わされ彷徨うようになるだろう。
とはいえ、秘境に位置するこの場所まで足を運ぶ者は殆どいない。
その森の真ん中で、彼はただ無言で足を進める。
さらに深く、深くへと。

道なき道を迷うことなく進み、森に息づく者達全てが彼の動作を見守る中、苔までもが淡く光る古い木々の間を抜け、やがて突如として開けた空間へ出て、青年はその足を止めた。
そしてその先を見つめる。
森の中心、青く透き通る泉。
その中央に根付いた大きなクリスタルの結晶。それは神々しいとでもいえる程の存在感を持って、その空間に在った。

「久しぶり」

吐息を零すように静かに発された青年の声は、静まり返った湖の上ですぐに四散し空気に溶けた。
目深に被ったフードを下ろし、その下から現れた、一つに束ねた目を見張るような深紅の髪を彼はフードの外にはらう。
歳は二十半ば程か。少しきつい印象だが、整っていると言える容姿をした青年は視線を上げ、クリスタルに向き合う。
正確には、クリスタルの中で静かに眠る少女へ。

「アイディリア」

少女の名を呼ぶ。耳が長くとがった森の民エルフ族の少女は、細い腕で自らの胸を貫く長剣を抱きしめるようにして眠りについていた。古(いにしえ)の型で織られた白いローブは、細部の模様までもかつての色彩を失わずに冷えたクリスタルの中で時を止めている。
長剣がその胸を貫いたその瞬間に浮かべたのであろう表情のまま、少女は青年の髪と同じ深紅の瞳を、何も映さない澄んだ青い瞳で見返した。
その表情は、微笑み。
状況が状況でなければ誰もがその温かい微笑みにほっとするであろうその表情は、けれども少女の胸を侵食する長剣の存在に痛々しい雰囲気を伴っていた。
少女は微笑み続けている。ずっとこの場所で。

「この十年で西に国が一つ出来た。まだ黎明期の混乱の中だが、指導者が意外としっかりしている。しばらくすれば落ち着くだろう。それと、機械がまた現れだした。以前の二の舞にならないといいけれど、また魔法は減衰期に入るだろうな。」

しんと静まり返ったその空間で響くのは、青年の柔らかな声音と森の破片が力尽き零れ落ちる透明な音だけ。淡々と回った旅先の報告をする青年の声は、森と、緊張をもって二人を見守る、目には見えない精霊たちの間に響いた。

「……ここの結界はまた張り直しておいた。でも湖の水に僅かに呪が混じり込んでいた。原因はわからないけれど、どこかで何かの封印が解けたのかもしれない」

ここに来る前に何とかするから。

「また行く」

そう少女の瞳を見つめ返す。
だが不意に彼は顔をゆがめ、その柔らかな微笑みから逃れようとするかの様に視線を青く光る水面へと落とした。

「いつまで……」

胸の上のマントの布地をギリ、と苦しげに掴み、クリスタルに当てていた皮手袋をしたもう一方の手が硬く握りこまれ、震える。

「いつまで俺は……」

額をクリスタルに押し付けて呻くように、青年は呟く。

またどこかで、森が崩れる音がした。

 

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